河野龍太郎
髙久先生、お別れの会
学内で、お昼休みお花見(2007年4月6日)
ホテルニューオータニ東京で、髙久史麿先生の「お別れの会」が行われました。
下記の文章は、私が医療安全全国共同行動の安全レポートに寄稿したものです。
(自治医科大学名誉学長 髙久史麿先生は、2022年3月24日にご逝去されました。91歳でした。)
髙久先生追悼文
徳のある、真のリーダ:髙久学長
株式会社 安全推進研究所
代表取締役
自治医科大学名誉教授
河野龍太郎
髙久先生を始めてお見かけしたのは、2004年8月、第127回日本医学会シンポジウム(テーマ:医学・医療安全の科学)が箱根(箱根会議)で開催されたときでした。当時、私は東京電力株式会社技術開発本部で、原子力発電のヒューマンファクターの研究をしていました。医療とは全く無縁の仕事に従事していました。
会議が終わり、バス停でバスを待っている時、まさにすぐ横に先生が並んでいらっしゃいました。もちろん、まだ一度も話をしたことがありませんでした。当時、医療の現実を知らない私は、医療システムが安全について全く真剣に取り組んでいないことから、医療界に対してネガティブなイメージを持っていました。私は不謹慎にも「この人が医療界の重鎮なのか」と思いました。心の中では、「医療が安全を考えていないシステムになったのは、医療が利潤だけを考えていたからではないか!こうなったのは医療界をリードする人がちゃんとしていなかったからではないか。」と批判的に見ていたのです。今から考えると自分の無知さが恥ずかしい限りです。話は全く逆で、その医療業界をなんとかしようとされていたのが、まさに高久先生を中心とした、箱根会議に集まった医療関係者たちだったのです。
その後、私が、髙久先生が学長をされている自治医科大学医学部に転職するなどとは夢にも思っていませんでした。
医療安全に関する関心が高まり、医療安全の研究会が国立国際医療研究センターで開催されるようになり、夕方遅くに終わるのが常でした。私は地下鉄を使って移動していましたが、帰る方向が同じこともあり、髙久先生と歩いて地下鉄の駅までご一緒させていただくことが、何度かありました。企業に勤めていた私の感覚では、「これだけ偉い人なのに、なぜ、タクシーを利用されないのだろう」と疑問を持ったことがあります。歩きながら話をすることがありました。先生は「日本はこれから高齢者が増えて大変なことになるのですよ。」とか「地方に医師がいなくなり、そうなると患者さんが困ります。診てもらえないのは可哀そうですから、何とかしなければなりません」とおっしゃっていました。
東北大学の故上原鳴夫先生や武蔵野赤十字病院の故三宅祥三院長が中心となった「医療の質と安全についての研究会」に参加するようになり、医療の実態が少しずつ分かってきました。そんな中、自治医科大学病院の医療安全対策部主催のヒヤリハット事例分析実習研修の講師として招いていただきました。研修後、自治医大と私の自宅が近かったことから、当時の安全対策部長であった長谷川剛先生と医療安全の問題について、いろいろ雑談をしました。以前から、私は「医療はなぜシミュレータを使わないのか?安全な医療には必須のツールである。」という話をしていたのですが、そこで、自治医科大学でメディカルシミュレーションセンターの構想があることを知りました。
2007年4月に東京電力の研究所を辞め、自治医大医学部メディカルシミュレーションセンターに転職しました。医療とは全く関係のない世界への転職のために非常に不安があったのですが、この時、本当にうれしかったのが、髙久先生が私を受け入れていただいたことでした。 私は医療業界で知っている人はほとんどいませんでした。自治医大は医療安全対策部の人をわずかに知っているだけでした。また、私は、これまで航空業界、原子力業界などで働いてきましたので、大学、まして医学部というまるで畑違いのところに転職しましたので、不安がとても大きかったのです。
この不安を取り除いていただいたのが髙久学長でした。お昼時間の少し前、学長秘書の能見さんから電話がかかってきました。「髙久先生が学食に食事に行かれます。先生もご一緒にどうですか?」というお誘いの電話でした。不安なまま記念棟の出口に行くと、髙久先生や医学部長といった幹部がずらりと揃い、みんなで雑談しながら歩いて学食に行きました。
学食では、自治医大幹部が学生と同じ食事を食べていました。時々、理事長を中心とした事務系幹部も学食で一緒になって、昼食を食べました。実に和気あいあいとした雰囲気の昼食の時間でした。コミュニケーションが実にいい大学だな、と私は思ったものです。この昼食の時間のお陰で、私は少しずつ自治医大の人と知り合いになることができました。人脈のない私には、本当に高久先生の気さくなお人柄のお陰で、次第に職員のみなさんと交流することができるようになりました。
春になると思い出すことがあります。ある天気の良い日、学長秘書の能美さんから「先生、これから髙久先生とご一緒にお花見をしましょう。」という電話がかかってきました。写真はその時のものです。きれいな桜をみながらのんびりと趣味の話や仕事に関する話をしました。
ある時、新幹線で東京に行こうとプラットホームに行くと、髙久先生が列にならんでおられました。私の感覚では、学長となれば企業のトップなのでグリーン車が普通だろうと思っていたのですが、高久先生は普通車のしかも自由席の車両に並んでおられました。先生も気がついて、東京までご一緒させていただきました。「これから講演に行くのです。」と言って、スライドを見せていただきました。また「こんなことがあったのですよ」と自分の経験談を話していただきました。
「私は新幹線にギリギリで飛び乗ったことがありました。乗ったとたん、ドアが閉まり、息がハアハアと切れて、とても苦しくなりました。すると、隣の中年女性から『大丈夫ですか』と盛んに心配してもらいました。『体を楽にして』と言われ、水をもらいました。『お医者さんを呼びましょうか。』と言われました。流石に『私は医師です』とは言えませんでしたよ。」とあのニコニコの笑顔で笑いながら話されました。
私はヒューマンエラー研究の関係で、医療だけでなく、製造業や建築業などを研究対象としている研究者と話をする機会があります。食品製造業の幹部を務めた人で、企業の不祥事について研究している人が、「会社は社長で決まる。社長がしっかりした人であれば会社は発展する。不祥事も社長がしっかりしていれば発生しない。社長には徳のある人がなるべきだ。」と言っていました。その意味では、髙久先生はまさにその徳のある人だと思います。私は髙久先生やその周りのよい人のお陰で、自治医科大学のゴールデンエイジを過ごさせていただいたと考えています。
すべてが懐かしく思い出されます。
髙久先生には、日本の医療安全のために最後の最後までご尽力いただきました。本当にありがとうございました。
以上